昭和40年01月07日 朝の御理解



 元旦祭のあとでございました。北野の福島さんが「親先生今年と言う年は。昭和四十年と言うお年柄は、私どもに取りましても椛目にとりましても、まあ大変なお年柄になると覚悟しなければなりませんと。つきましてはこの昭和四十年というお年柄にちなんで、ね、四方を円くおさまるということで、おかげを頂かなければならんと思いますから、どうぞ、そういうおかげの頂けますよう」にというお取次ぎを願われました。
 40ですからね。四つが丸とこう書いてある。40(よんまる)と書いてある。ですから、四方が円く治まるようなおかげが頂きたいと、こう言うわけなのですね。それどころではないですねえ。お道の信心はそれなんです。あちらも立てばこちらも立つ。ね。例えて教祖の神様は、そのような事について、お知らせ下さっておるのに、「うち向かうものには負けてでも」と、仰っとられます、ね。
 「うち向かうものには負けて時節に任せ」とこう仰る。うち向かうものに負けてでも時節を待たせて頂いて、円く治まっていく、あちらも立ち、こちらも立つようなおかげを受けていかなければならん、と教えておられます。もう教祖の一貫した御精神ですね、言うなら。相手を打ち負かしていこうといったようなものではなくて。先日から、私共の長男が頂いておる初夢なんです。
 『椛目のこのお玄関の所にです、大きなこの鮒がですね、しかもこのそれに足がついておる。鮒に。それがその、のっそりのっそり、こちらの玄関に向かって入って来る』と言うわけなんですね。まあ聞いただけでも実にグロテスクな感じなんですよ。ね。鮒に足が付くなんて。『それで長男が驚いてですね、こういうものを内にいれてはいけんと言うので、それを殺してしもうたと。ところが、その辺りにその臭気がですね、もう夢の中ではありますけれども、もうどうにも出来ん。
 その印象に残っておるわけなんですね。臭気のもうそのいやらしい、その臭気にですね、朝まで気分が悪いくらいに臭気がただよって困つた』と言うお知らせを頂いております。ね。ですから例えば、本当にそういうような恵みを放れてですたいね、魚が恵みを放れて、お恵みの水を放れておるような人にでも、ものに、いうような場合にでもです、こちらが恵みの水を差し向けていくようなゆとりがなからなければならないと言うことです。例えば青年の潔癖と申しましょうかね。もう正は正、邪は邪と。
 そしてそのはっきりとしていきたい。これは私共でもやっぱりそういう感じが致しますですね。する事は。ね。ほんとに白黒付けて進みたいと言うのが、まあ私共の気持ちの中にもありますけれども。さあそこを信心で頂いていくのが、お道のご流儀なのですから。ね。俺の気分に合わんものはもう殺してでもと。ね。そういうようなものは信心じゃない、と言わずにです、ね、
 むしろそれに、恵みの水をこちらから向けていくことによって、その鮒は泳ぐようになるだろう、その言わば汚い、さい出しておる、いわば、なんていうか、汚い手を無くしていくだろうと、こう私は思います。それだけのです、やはりゆとり、それが必要じゃないかと、こう思うんですね。私どもの家庭のうえにおいても同じ事が言えます。又は皆さんの職場においても、そういうことが言えます。なおさら信心の世界の中心であるところのお広前においておやであります。ね。
 ここん所を私は祈り抜いていく。言うならばです、これが商売人であるならばです、ね、商売敵のそのことですら、私は祈り抜いて行かなきゃいけない。いま向こうが、お客さんが、例えば少ないといったような時には良い気持ちになる。向こうが繁盛しておったら、もうこちらが、いらいらするといったようなことでは、自分の信心不足であることを悟らせて頂いてですたい、ね。共々が立っていくようなお繰り合わせ、ね。商売敵の上にでも、祈りを惜しまない信心。
 そう言う豊かさ。ね。そこには必ず、このあちらも立てばこちらも立ようなおかげが頂けれるのが、またお道の信心でもあるということです。私は昨日驚きました事があるんですけれどもね。昨日善導寺の親先生が、ここの土地の話が、敷地の話がございましたので、是非、自分が、話が出たら言うて来い、すと自分が一遍下見をするからと言う事でございました。それで総代さん方、高芝さんそれから福島さん、残られましてから、親先生をお迎えに行って、見て頂いたんです。
 帰りにこちらへ寄って頂きましたから、まあちょつと正月の印どもさせて頂いたのですけれども、その中に信心のよもやま話の中からまた、その或る先生が私に話をして下さるんですね。或る教会の話なんです大きな教会です。そのそこで長年修行された先生のことをですね、首にするという話を聞きましたね。親教会がその教師をです、首にすると「先生、どうゆう訳ですかち」「親の思いに添わないから」「先生そう言うようなことが出来るのですか」と私言ったら、「そういう法規がある」と仰いました。
 私驚いてしまいましたですね。これは高芝さんも久保山先生も福島さんも聞いて居られるところでございました。そんなら親教会の非は誰が正すかと。親教会の例えば、そういうような事でももし、言語道断の事があっても例えば大目に見て、それこそ本当に弱い弱いです、しかも教会子弟ならともかくです、普通の信者からお道の教師にでもならせて頂こうという。とてもこれは大変なことだったろうと私は思うのです。
 しかも本部に夫婦とも修行させて頂かれてから、教師の資格を取られ、その教会では十何年間の修行もさせて頂いて、そして何かの落ち度があったからと言うてです、しかも私にはそれが落ち度ではない、むしろほんと言うならばそうあるべきでなからなきゃならんと言うような人をです、親の思いに添わんなら首にすると。免職にすると「ホウそういう事ですか」と私は実に驚きましたね。お道の信心の例えば、もしそういうような法規があるとするならですね、これは大変な事だと私は思うですね。
 親の信心、成程子供の信心。それだけのベースをもっとります。親のベースに合わないからと言って、それを首にする。成程そういやぁ、あそこで修行された方達がたくさんあるけれども、教会をもって、んなら布教にでも出ると言う人達が、もうほんとに少ないのに驚きます。結局自分の気に合うた、自分の気分に合うた弟子だけが出ておるだけであって、それはもう、ほんとに哀れな末路をたどつておられると言うことを私は知つております。ほら、もう、私は繰り返し申しました。
 「親先生、そういうことが出来るとですか」と私は申しました。「そりゃ<例えば>、私もその先生のことは知つてもおりますから、どうぞ、そういうような事にならんように、いわば、その先生も立ち、親教会も立つような、両方立つような、親先生もそれにタッチしておられますから、一つそういうふうなおかげ頂かれますように、してあげてやって下さい」と言うて、私はお願いしたことでございます。ね。そういうような事がです、私共の一身上の上にも家庭の上にもです、ね、ありはしないか。
 もしあったら、それをぬかして、それを他へもっていって、自分達が自分の気分に合うた事だけにならせて頂こうというような在り方ではいかん。それが例えば、もう邪である事がわかっておつても、正ではない事がわかっておっても、それは長男がお夢を頂いておる、グロテスクなその鮒に、足の付いて居るようなものであってもです、ね、鮒が鮒であるならばです、やはりそれに水を向けてやる位らいな、私はゆとりがです、ね。これは商売の上にでもです。
 職場の上に於いてもです、それがなされていくのが、祈らして頂くのが、私はお道の信心だと、私は確信いたします。ね。私そんな話して聞かせて頂いてから、ほんとにそういう皆さんが「親先生親先生」と言って下さるが、そういう親先生には、ほんっとに成っちゃぁならんな、と私は思いました。ね。この頃から申しますように、ほんとにもしそのようなものが在るとするならです、教団の中の獅子身中の虫ですよ。
 昨日夕方から、竹内先生たちが夫婦でお礼に出てみえられた。それで丁度、私が風呂に入っておりました。その間、朝の昨日のご理解を頂いておられます。あの中に私があの御理解の中に、[富士の白根《高嶺》に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変わりは無いけれど]と、こう言う風に。私は知らんです。そう言う風に皆さんに聞いて頂いたのですね。ところが、竹内先生なかなか粋人ですから、それは「先生、あそこはああじゃありません」ていう訳なんです。
 けれども、「ああじゃありませんけれどもですね、あのご理解がちゃんとそのように、出来ておるのにもう驚いてしまいます。成程、先生が仰るようにですね、椛目のお取次、または椛目の御理解と言うのはです、本当に京都先斗町に降る雪のような情緒がある」と言うて、言われるわけなんです。ね。あれは先生、あの[富士の雪嶺《高嶺》に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変わりはあるけれど]だそうですね。雪に違いがあるけれど、違うということはそうですね。
 私は<あそこ、昨日、その>解けて流れた先が同じだと言うことだそうです。けれども、その御理解がそのようになっておる。私はそこは違えておるけれども、御理解はそのようになっておると。「本当に、神ながらな事ですね」と言うて、「ああそうですか」と言うて、まあ聞いたことなんですけれども。帰りがけにです、奥さんが、あの私に「親先生、あの今年の私の信心の生き方を、どうぞ、あの情緒のある意味合いにおいての、御理解を一言でも良いから頂かせてください」と言うて、もう帰る時間に炬燵の前で、そう言われるんです。その事をお届けさせて頂いたんですね。
 ところがその、ここを一つの、まあいうなら、ここがお互いのおかげ頂きたいという目的でしょう。そこへ向かって、ずうっと飛び石づたいに<な>るところを、心眼に頂きます。「ですからそうですね、竹内さん。今年はどうでもね、も一つ一つのね、事柄をです、大事に取り組んでおいでなさいませと。それは一つの目的に向かうところの飛び石づたいなのですから。ね。一つでもこれをおろそかになさるとです、ここは飛んではいけない事になります。
 その中にはです、いわば正もあろう。言うならば、邪もあろうと言うことなんです、今日の御理解から言えば。こんな事はいやだ、と言うような事もあろうということなのですけれども、そこを実意丁寧にです、一つ一つを大事にしていく事に、焦点をおかれたら良いでしょう。」「ハア、おかげを頂きまして有難うございました」と言うてから、帰られました、ね。これは皆さん、竹内先生の奥さんだけの事ではございませんです。お互いが本当に大きなおかげを頂かせて頂くためにはです、ね、
 神様どういうところに道付けしておって下さるやら分からん。その過程において、例えばその長男が頂いておりますような、まあこういうようなものは切つて捨ててしまいたいと。もう殺してしまおうと。それは青年のいわゆる正義感がです、そうしなければ居られないような、でしょうけれども、そこを信心で頂かなければです、後の、殺した事はよいけれども、殺した後の、その臭気がたまらないのです。
 それが何時までもただようのです。いわゆる後味が悪いのです。ね。も一つ信心を、お道の信心を、本当に自分の信心を、自分のものにするためにです、ね、あちらも立てばこちらも立ち、福島さんの元旦の後のお届けではないですけれども、今年こそは四十年という年柄にですね、四方が円く治まるというような、おかげにならせて頂くために、いよいよ真の力を頂くと同時に、和らぎ賀ぶ心が。
 お互いの心の中に広がって行かなければ、それが出来ないと私は思うのです。そのために自分が、そのために苦しいような事であってはならんです。和らぎ賀ぶ心の中にいうならば、泳がせて行くという。それが邪でありましても、こちらから水を差し向けてやると。お恵みの水を差し向けてやると言うような、私はゆとりのある信心を頂かなければならんなというような事を感じました。おかげを頂かねばなりません。